Column

2024.6.4

宮城県 旧野蒜駅(東松島市震災復興伝承館)

                               取締役 撫佐昭裕

    私が初めて旧野蒜駅を訪れたのは2011年5月のことだった。東日本大震災によって運休していた東北新幹線が東京・仙台間で運転を再開したのが4月25日、それから仙台への出張が可能となり、何度か仙台を訪れた。そして、仕事明けのある日、石巻まで行ってみたいと思い、同僚と二人で仙石線に乗った。この時の仙石線は松島海岸駅までが電車で、そこから先はバス運行だった。松島海岸駅で乗り換えたバスは満員だった。

 

    バスが出発すると、海岸近くでは津波の傷跡が見られ、道もガタガタだった。そして、海岸から離れると津波とは無関係な世界が広がっていた。同じ町でも明と暗に別れていた。多くのダンプカーとすれ違った。そして、一台の大型トレーラーともすれ違った。後ろにはJRの気動車が積んであった。被災した気動車だ。運転手や乗客は無事だったのだろうか?と思った。その時、隣に座る婦人から声をかけられた。

 

    「大変な生活を送られているのですね。私は、知人が石巻にいて日用品がなくて困っているので、それを届けに来ました」と。確かに大きな荷物を抱えている。その婦人は、私を地元のサラリーマンだと思ったようだ。その時、私は何を答えたか記憶に残っていない。ただ、恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。婦人は知人の生活状況を涙をこらえながら語ってくれた。私はボランティアでもなく、物資を届けるでもない。ただ見学に行くのだ。そして、バスの中を見渡すと、大きな荷物を持つ人や地元の方たちだけだった。自分たち二人は満員バスの二席を占領し、そして興味本位で石巻に行くのだ。急に自分の行動が嫌になった。今すぐこのバスを降りたくなった。

 

    道路の左手に、流された電車が横たわっていた。そして、町中に入ると二階建ての郵便局の1階が何もなかった。鉄の柱だけだった。その光景に愕然とした。その時、“次は野蒜駅、お降りの方はボタンでお知らせください”とのアナウンスに、反射的にボタンを押した。これ以上先には行けないと思った。これが、私の初めての野蒜訪問であった。

 

    野蒜駅でバスを降りた。何も見てはいけない。写真も撮ってはいけないと思い、上りのバスがくるまでホームに座り込んでいた。海の方に二軒ほど屋根が見えた。きっとあの家も郵便局と同じようになっているのだろうと思った。時々、私達のような出張者らしい人が車を止め、写真を撮っていた。今となっては、野蒜駅の駅舎がどうなっていたか、またその周辺の状況も覚えていない。

 

    不通になっていたJR仙石線は一部海岸線から内陸に移設され(野蒜駅も移設された)、2015年に全線開通した。仙石東北ラインも同時に開業し、仙台から石巻が近くなった。先日、新野蒜駅の情報を検索していたら、旧野蒜駅が現存していて東松島市震災復興伝承館になっていることを知った。早速行ってみた。

 

    新しくできた野蒜駅は高台にあり、駅前には観光物産交流センターがあった。ここではちょっとしたお土産を買うことができ、また軽食の提供もしている。私は東松島市特産の豚肉を使ったハンバーガーを食べた。ジューシーで美味しかった。旧野蒜駅は野蒜駅から高台を下ること15分ほどで着いた。旧野蒜駅の周りは、東日本震災復興記念公園として整備されていた。

東日本震災復興記念公園のモニュメント(後ろが旧野蒜駅)

 

旧野蒜駅のプラットホームと線路

 

    旧野蒜駅が見えた時には、取り壊されることなく、遺構として残っていて良かったと思った。そして、このホームで佇んでいた時の自分を思い出した。今思えば、その時の風景を目に焼き付け、記録に残しておけばよかったと思っている。以前、防災関係の講演会で東京大学の先生のお話を聞いた。「自分は阪神淡路大震災が発生した直後に現地入りして、壊れた構造物の測定を開始した。その時には瓦礫に埋まっている人達の救出作業が行われていた真最中だった。私は、自分のしていることに疑問を持ち、何度もその場を離れようとした。しかし、上司からは今残さないと永遠に残せないデータがある。任務を遂行することが重要だと言われた」と話されていた。確かにその通りかもしれない。私と東京大学の先生の役割は大きく違うが、私も写真を残しておけば家族や知人にその時の状況を伝えることができたはずだ。そして、今、防災に携わる身として、強くそのように思うようになった。

旧野蒜駅舎(東松島市震災復興伝承館)

 

    旧野蒜駅は東松島市震災復興伝承館として、朝9時から17時まで見学できる(第三水曜日と年末年始は休館)。1階が多目的ホールと展示ルームになっていた。多目的ホールはその時々のイベントや展示が行われていて、展示ルームには東松島市の復旧と復興に向けた歩みについて展示していた。東松島市には、アクロバット飛行で有名なブルーインパルスの基地がある。そこも被災し、ブルーインパル全機が流された。その基地の被害についても1階に展示してあった。2階には、被災した乗車券券売機の展示と2011年3月11日の東松島市各地の被災状況の展示になっていた。また、1階、2階とも被害に遭われた方々の体験談とその方々の後世に残したいメッセージをビデオ上映していた。家族を亡くされた方、津波から生還された方、救護を行った方、それぞれの体験と思いが語られている。経験された方々だからこそお話しできる内容で、多くの方にこのビデオを見ていただきたい。

 

    2011年の時には海まで行かなかったので、行ってみた。歩いて10分程で新しくできた堤防に着いた。この堤防は道路になっていて、そこから海を眺めることができた。左手に石巻市、日本製紙の大きな煙突が見えた。右手が奥松島。天気は良くなかったけど、心地よい波の音が響いていた。そして、この海岸沿いには民家はなく、2011年に見た2軒の家もどのあたりにあったかわからなかった。

 

    旧野蒜駅(東松島市震災復興伝承館)は私のように電車で訪れることもできるが、奥松島に行く途中(県道27号:奥松島パークライン)にあるので、観光のついでに車で立ち寄るのがおすすめだ。

 

動画:宮城県 旧野蒜駅(東松島市震災復興伝承館)